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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)1586号 判決

控訴人

早川寛

右訴訟代理人

岡村親宜

野村和造

鵜飼良昭

柿内義明

宇野峰雪

被控訴人

日本鋼管株式会社

右代表者

槇田久生

右訴訟代理人

高梨好雄

高井伸夫

中原正人

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一原判決理由一ないし四に示された事実認定については、当裁判所も同様に認定するものであるから、この記載を引用する。当審証拠調べの結果によつても、これを変更する必要は認められない。

二右認定の控訴人の行為が、「重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇入れられたとき」という解雇事由に該判旨当するか否かについて検討する。まず一たび採用された労働者が右事由に該当するとして解雇されうるのは、当該労働者が虚偽の申告をしたという不信行為に対する制裁としてか、それとも当該労働者が真実の申告をし、使用者にその点についての錯誤がなかつたとしたら当該労働者を採用し、これと労働契約を締結しなかつたであろうという使用者の判断の誤りを救済するためか、それともその両方であるのかという問題が考えられる。ところで、労働契約締結の段階における個々の労働者の立場は、使用者である企業の立場に対し、著しく弱いものであることはいうまでもないから、労働者が採用されるために時として企業に対し虚偽の申告をすることがあるのは、必ずしもこれを深く咎めることができないこと及び労働者に右事由があるときは、法理論上は使用者は要素の錯誤に基づく労働契約の無効を主張するか、又は詐欺による意思表示の取消を主張しうるはずであつて、単に右事由に基づいて労働者を将来に向つて解雇するにとどめることは、労働者の不信義に対し当然受けるべき不利益の程度を越えて制裁を加えることを意味しないことを考慮すると、前記解雇事由は、使用者の前記の判断の誤りを救済することを目的として定められたものと解するのが相当であり、そうであつて見れば「重要な経歴」とは、当該いつわられた経歴につき通常の使用者が正しい認識を有していたならば、当該求職者につき労働契約を締結しなかつたであろうところの経歴を意味すると解すべきであり、又複数の経歴事項にいつわりのあつた場合には、その一つ一つを取つてみれば採否を左右する程重要ではないが、その全部を総合した場合は不採用は避けられないという場合もありうることはもちろんで、このような場合は、右いつわられた経歴事項を総合して重要な経歴をいつわつたとの評価が与えられることとな判旨る。本件の場合、前認定の控訴人の経歴とくに本人の学歴、父の職業、兄の職業、弟の学歴等に関する詐称は、これを総合的に見た場合、通常の使用者であつたならば、控訴人が単純作業に堪えるかどうか、比較的低学歴者による現場の指揮統制が適切に行われるかどうか等に疑念を抱き、これをもつて特に単純作業のみに従事する労働者としては不採用の理由とするであろう程度のものと考えられるので、重要な経歴詐称といわざるをえないし、更に控訴人が、その父である早川崇の連帯保証に関する署名押印を偽造したことは、仮りに控訴人が早川崇の追認をえられるとの見通しを抱いていたとしても(〈証拠〉によれば、当時控訴人は早川崇の厄介にならないと決心していたことが認められるから、むしろそのような見通しを持つていたとは考えにくいのであるが)、採用前に右連帯保証が無効である事実を知つていたら、通常の使用者は採用を手控えたであろうとしか考えられないものであつて、いずれにしても控訴人の行為が「重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇入れられたとき」に該当するものであることは否定できない。(この点につき、〈証拠〉には、本人の学歴や家族の職業学歴等につき、本当のことをいつたらとても採用してもらえないと思つて虚偽を書いた旨の部分があるがもつともである。)〈証拠〉によれば、控訴人は、その政治的信念にもとづき東京大学における学業を中途で放棄し、みずからの肉体的労務によつて生きる決心をし、被控訴人会社に就職したものであることが認められるが、経済的利益の追求を目的とする企業である被控訴人に控訴人の右政治的信念に協力しなければならない義務がある訳でもないから、右の事実は前認定及び判断とはかかわりがない。また近来我国民一般の高学歴化により、いわゆるブルーカラー階層に占める大学卒等高学歴者の占める比率がかつてより高くなつているであろうことも否定できないところであるが、一口に大学といつてもそのうちにはさまざまの評価のものがあるのもやむをえないところで、特段の理由もないのに我国における最高学府とされる東京大学中退者をすすんで現業員に採用する企業があろうとも思われないので、この点もまた右認定及び判断を覆えすものではない。控訴人は、被控訴人が労働者の募集広告において学歴、職歴を不問とし、また被控訴人会社内において制度として学歴年功の排除を推進しているものである旨主張しているが、それだからといつて控訴人の行為が右条項に該当しないといえないものであることは多言を要しないところである。

三控訴人は被控訴人のなした解雇の意思表示が無効である旨、種々の理由を挙げて主張するので順次判断する。

1  控訴人は、経歴詐称は労働契約成立前の事情であつて、労働契約成立後の経営秩序の問題ではない旨主張する。なるほど仮りに使用者が経営秩序維持のため労働者に対する優越的地位に基づく懲戒権を有することを是認するとしても、労働契約締結前の労働者の行為を理由として懲戒権を行使しうるかについて疑いの存することはもつともである。しかしながら、本件解雇の意思表示は、就業規則第八六条及び労働協約第二八条により、控訴人が「重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇入れられたとき」に該当するとしてなされたものであるところ、右事由に基づく解雇は「懲戒解雇」の文言を用いて表現されてはいるものの、その実質は使用者である被控訴人が個々の労働者につき右事由がある場合に、当該労働者との労働契約を将来に向つて解除しうる旨の一種の約定解除権を留保したものであると解せられるから、その事由がある以上、それが労働契約締結前に生じたものであることは、被控訴人が右約定解除権を行使するのに別段妨げがあるということはできず、控訴人の右主張は採用できない。

2  控訴人は、労働者は労働契約締結前に使用者に対し、みずからの労働能力に関する事項以外の事項につき真実を告知する義務を負うものではないから、控訴人の経歴詐称に義務違反はなく、従つて被控訴人の解雇の意思表示は無効であるという。しかしながら、前述したとおり、本件解雇の意思表示は、経歴誤認等の客観的事由にもとづく約定解除権の行使であつて、控訴人の義務違反を論理的前提とするものではないから、右告知義務の有無は、本件解雇の効力とは関係がないというべきであり、控訴人の右主張は失当である。

3  控訴人は、控訴人の行為によつて被控訴人会社における企業秩序あるいは職場秩序の紊乱を生じたのでない限り、被控訴人は控訴人を解雇することはできないし、かつ本件において右の紊乱はなかつた旨主張する。しかし企業秩序あるいは職場秩序の紊乱とは何か、そもそもその概念内容が瞹眛であるのみならず、本件解雇の意思表示は前述したように約定解除権の行使としてなされたと解すべきであり、約定の解除事由は、「重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇入れられたとき」であつて、これを更に「その結果企業秩序あるいは職場秩序の紊乱があつたとき」と解釈しなければならぬ根拠に乏しい。それ故控訴人の右主張は、企業秩序あるいは職場秩序紊乱の有無を問うまでもなく採用することができない。もちろん使用者が労働者を解雇しても何らうるところがなく、もつぱら労働者に害悪を加える目的で解雇したような場合において、該解雇の意思表示が権利の乱用として効力を有しないことがあるのは、別の問題である。

4  控訴人は、本件経歴詐称とされる事項のうち、控訴人の父が国会議員であることは憲法第一四条にいう門地であり、控訴人が東京大学中退の学歴を有することは社会的身分に該るから、これを理由として控訴人を解雇することは許されないと主張するが如くであるが、本件解雇の意思表示がかかる事由に基づくものでないことは、本件口頭弁論の全趣旨に照らして明らかであり、被控訴人の右主張はその前提において失当というほかない。

5  控訴人は、控訴人が採用後本件解雇の意思表示を受けるまで被控訴人に対する労働契約上の義務を円滑に履行していた一方、被控訴人は控訴人を解雇しても何らうるところはないから、本件解雇権の行使は権利の乱用にあたり、又は少なくとも不当に苛酷な処分であつて、裁量の範囲を逸脱し、無効であると主張するので考えてみる。企業が労働者を雇傭する場合の法律関係は、単に労働者が労務を給付し、使用者がこれに報酬を支払うという労務と金銭の交換のみにとどまるものではなく、企業は労働者の安全に配慮し、労働者はたとえ単純な労務であつてもこれを誠実に履行する義務を負い、互いにみずからの義務の不履行について損害賠償の義務を負担する。更に企業は労働者に対し例えば家族手当、通勤手当等、労務の対価ではないといえないまでも、労働の量と比例しない、労働者にとつて生活保障的な意味合いを有する金銭支払義務を負担するのが通常であり、更に企業は労働者を雇傭することにより、当該労働者との関係で、税法上あるいは社会保険関係法上等その他もろもろの公法上の義務を負う。また我国においては、いわゆる終身雇傭を当然とする意識が一般的であり、労働者がみずから望むか、企業自体がその存立を危うするなどの場合は別として、企業が労働者をその意に反して解雇することは事実上極めて困難である一方、企業にとつて、適材を適所に配置し、適切な処遇を与えていわゆる士気の振興をはかることは、企業が目的とする経済的利益の追求のための不可欠の手段である。これらの点を彼此考え合わせると、企業が個々の労働者につき、現在の労務遂行能力そのものと一見関係のない学歴、職歴、居住関係、家族関係等に至るまで、その個人的事情に関心を抱くことはあながち不当ということはできないし、これらについて合理的な範囲で、採用前及び採用後に真実の告知を求めることは企業の正当な行為であるといえる(採用前に求職者に真実告知義務があるか否かは別の問題である。)。そうして被控訴人にとつて、控訴人に前認定の「重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇入れられたとき」にあたる行為があつたことが明らかになつたにもかかわらず、これを漫然放置しておくことは、将来他の求職者あるいは職員からも右のような事情につき正しい告知をえられない事態を招き(かかる事態は控訴人のいわゆる「企業秩序の紊乱」と評価することもできよう。)、重大な支障を生ずる虞のあることは見易い道理である。それ故に、仮りに控訴人が被控訴人会社に採用されてのち、本件解雇に至るまで労務の給付の点において、債務の本旨に従つた履行を忠実になした事実があるとしても(実際には、必ずしもそうでなかつたことは前認定のとおりである。控訴人の逮捕勾留による欠勤も、結局控訴人が不起訴となつたことにより、無罪の推定が働き、控訴人の責に帰すべき欠勤とはいえないというが、刑事責任についての無罪の推定が、ただちに民事上の債務不履行についての不可抗力を推定させるものでないことはいうまでもない。)、それだからといつて被控訴人が本件解雇の意思表示をするに当つて正当な利益を有せず、右意思表示が権利の乱用にあたるとはいえないし、又被控訴人が控訴人に対し、いわゆる懲戒解雇なみの不利益をもたらす解雇処分をすることもできたのに(本件解雇がいわゆる懲戒権の行使にあたらないことは前述したとおりである。)、それをせず諭旨解雇をもつて臨んだことを考慮すると、本件解雇が控訴人に対し不当に苛酷な処置であるともすることができない。ひつきよう控訴人の右主張は採用することができない。なお被控訴人は控訴人の性格、勤怠、技能上の問題等について種々主張しているが、仮りに被控訴人主張のような問題点が控訴人にあつたとし、これにより被控訴人がなんらかの不利益を受けているとしても、それがすべて控訴人の詐術の結果招来されたということのできないものであることはもちろんであるし、独立の懲戒事由に当らないような控訴人の問題点をとらえて、本件解雇の合理性を補強できる訳でもない。要するに右の点は本件解雇が権利の乱用にあたるか否かの判断について、何らの影響もないというべきである。

6  本件解雇の意思表示が労働基準法第三条に違反し、もしくは労働組合法第七条第一項にいう不当労働行為に該当し無効である旨の控訴人の主張についての、当裁判所の事実認定ならびに判断は、原判決理由五4に示された原審のそれと同様であるからこれを引用する。当審における証人山岸吉茂、同持田多聞の各証言中右認定に反する部分はにわかに措信しえず、その他当審証拠調べの結果によつても右認定及び判断を変更する必要はない。なお、控訴人は、本件解雇が造船資本あるいは被控訴人会社の全造船労働組合に対する組織的攻撃の一環としてなされたものである旨主張しているが、この事実を認めるに足りる的確な証拠はない。

四以上に述べたとおり、被控訴人のなした本件解雇の意思表示には、これを無効とすべき事情はなんら存在しないから、右意思表示の到達により控訴人、被控訴人間の労働契約は昭和四七年四月一四日をもつて終了するに至つたものというべく、控訴人の本件請求はいずれも失当とせざるをえない。〈以下、省略〉

(石川義夫 寺澤光子 原島克己)

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